最近の若者は「ダメ」か?

 「最近の若者はダメ」とは、発言者及び発言者周辺の作る狭い社会の中に「最近の若者」が持つ精神性や文化を持ち込んだ場合に適応できない、あるいは認められないという意味での「ダメ」という意味で好意的に解釈出来る部分があるように思える。当然、発言の前後で「最近の若者はダメ」には額面通りの「最近の若者は劣っている」がニュアンスとして含まれ解釈されるあるいは自身がそう意識しているということに気づくことになるから、発言者は「最近の若者はダメ」を否定されると自論の正当性を主張出来る根拠がないことにぶち当たり、鏡返し的に「最近の若者はダメでない」根拠を相手に求めるのではないか。
 好意的な解釈とはつまり、彼らは本質的に若者はダメだと思い込んでいるのではなくただ若者が優秀かどうかについて深く考察したことがない為に、自然に自身の価値観の内枠の中での若者性の価値判断を行っているのではないか、という意味である。50-60まで生きた人間の大半がが、現代の若者の能力は低く、それらの人間が50-60になっても自分たちを超えることはないなどとそこまで幼稚な考えを持っているとはとても考えられない。


 こうした「最近の若者はダメ」という言葉に後付的に「若者を低く見る文化が世代レベルでの成長を促し未来を切り開いてきた」などといった論説をするのは事の本質を見据えていないと見える。問題にされるべきは彼らの「最近の若者はダメ」という発言がどのような要因から吐き出されてきたかというミクロ視点での話であり、そうした発言の集合体が我々全体とどのように関わってきたかというマクロ視点での話ではないからである。
 しかし、マクロ視点での話もまた一考されるべきではあろうと思う。当然、そうした効能があるから「最近の若者はダメ」という言説は認められるべきとはできない。こうした形でのマクロ視点からミクロ視点への転換は不適切であると考えられる。
 「最近の若者はダメ」が「若者を元気に」してきただろうか。オッカムの剃刀よろしく、「最近の若者はダメ」は切り捨てられるべき言葉ではなかろうか。結論から言えば、まさに余計な一言であるように思う。なぜなら「最近の若者はダメ」は言ったところで冒頭のように「最近の若者は劣っている」と解釈される可能性が高く、そうした発言を平気でする人間に対して若者の士気が高いとはとても思えず、発言者の郷愁であると理解したところで若者側の反応は似たりだろう。「最近の若者はダメ」を言わなければ無駄に士気をそがれることはなく、実際に劣っているならば数値がそれを示し、結果は自身に跳ね返ってくるだろう。認知できぬ能力の低下は自身に起因するとは限らない。外部環境と測定基準の正当性を疑ってみるべきと思う。


 ここでもう一度、ダメとは何かについて考えたい。計数能力が低いことか、精神年齢が低いことか、適応能力が低いことか、体力数値が低いことか、文化が劣等であることか、意思が薄弱であることか、趣味が希薄であることか。私にはこれらすべてが広義な相対的パラメータであるように感じられる。つまり、ダメとは相対的であるということである。
 実務能力の低さとは、その実務を求める側も年代によって変われば仕事になる最低レベルの実務レベルのラインも変わる。逆に高齢者の犯罪率の高さは法基準というものが(少なくとも軽犯罪のレベルでは)流動的であることや、気質やそれを許容する文化がまた相対的であることから絶対的な指標には成り得ないようにも思える。
 しかし、絶対基準が存在しないとも云いきれないのではないかと思う。例えば隣人を殺害することは過去現在未来を見渡しても、看過されることなき犯罪であり、ひとつの指標となるのではないか。そうした犯罪をどのように解釈するかはまた別問題であろうが、様々な要素の複雑に絡み合う結果として存在する傷害致死という結論がどれだけ存在するかということは決定的な要素であると思える。どういったパラメータが相対的として認識されるべきかということに関しては、より深く考察するべきであると思える。