集団と個人の論争における非対称性

前提

・集団が集団を相手取る→対称
・個人が個人を相手取る→対称
・集団が個人を相手取る→非対称
・個人が集団を相手取る→非対称

 対称であるケースでは相互に平等であると言えるから、以下で提示する問題は生じない。ここでは主に4例目の個人が集団を相手取る場合の非対称性について述べる。


集団が個人を相手取るケースの例
 →2chやふたば、その他bbs等で個人が引き合いに出されるパターン
  →有名人が槍玉に挙げられるパターンか、一般人が私刑に会うパターン

ただし通常bbsなどで論争する場合、個人間での統率が取れていないので、
・メリット
 ・いわゆる勝ち戦である場合攻撃力が飛躍的に上がる点
 ・実際には個人の集合であるため、集団として矛盾した意見を内包出来る点
 ・数の暴力という武器が存在する点
・デメリット
 ・相違する個人がいる以上、常に純粋な意見を排出できない点
 ・論争における勝ち負けが明確でない点


個人が集団を相手取るケースの例
 →blogなどで一個人が集団の総論にメスを入れようとするパターン

・メリット
 ・集団側の反論に対して、私は集団とは違うのだから、集団の言ってきた事に対する責任は存在しないと言い切れる点
 ・意見を挿げ替えても自身の裁量で全てをコントロール出来る点
 ・個人の限界を提示することが出来る点
・デメリット
 ・1人で実際に多数の人間に対し返信しなければならない手間という点
 ・多角的な視点を求められた場合に対応が困難である点

個人が集団を相手取る場合のメリットについて

 一般に個人対集団ではいかにも個人が弱者のようかに思えるが、実際はそうではない。そこに集団側の権力や圧力、実動力なるものが存在しない限り、手間と折れないだけの精神力を惜しみさえしなければ個人のほうが圧倒的に強い。


 上で述べたように、個人が集団を相手取るメリットとして、自身の責任の及ぶ範囲を自身だけに限定することで、集団内で繰り広げられていた数々の前提的な責任を無効化できる。これは本来議論としてはあってはならない光景だが、そもそもにネット上における集団とは集団としての体しか成していないので改めて個人が疑問を提示した場合、それが今までの肯定派あるいは否定派が持っていた相手に対する説明責任や言われていた批判材料をなかったことに出来る。つまり、これはあくまで私の意見であり、私の総意であるから、集団とは関係ない、と言い切れる。
 また個人としての限界を示すことにより、ここまでは私が頑張ったから後は何かあればそちらで提示してくださいと言い切れる。これをもって立証責任を逃れることが出来るため、平等さにかける発言であっても容認されやすいといえる。私はある革新的な意見を提示した、だから事実確認は君たちでお願いしたいという主張であっても、ある程度の説得力を持ってしまう。


 自身側の意見を自分だけでコントロール出来るのも大きい。通常集団は、特にネット上の集団は意見を集約する力に大きく欠ける。統率者がいない以上、当然だ。こういった集団を相手にしているにもかかわらず、自身と集団を対等な立場として議論が進む以上、意見の相違が多発する集団側に対し、常に一貫した姿勢あるいは二転三転しても統率の取れる個人側の持つメリットはとても大きい。
 こうして個人が集団を相手取った結果現れる新たな個人と個人が対立しだした場合は対称であるから上記のような問題は発生し得ないようにも思えるが、実際は違う。集団を相手取った個人である以上、その影響力はあたかも集団と同等以上かのように思えるその個人に対し、初めての対峙が個人相手である個人とは背景になるものが違うため、はたから見ても大抵の場合前者の個人のほうが有力に見えるものだ。これはこれでそのまま集団じみたものを構成していく一つのプロセスであるようにも思えるが…

非対称性の利用(意図するかせざるかに関わらず)

これまでに鳩山由紀夫がやったことの首相行動表を修正してみる(情報の海の漂流者)
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20091008/1255021841


 上エントリにおいて、上記のようなメリットを応用する例がいくつか見られる。例えばコメント2件目で

> y7さん
僕は麻生さんバー通いのときも今回の鳩山さんの時も同じスタンスをとっておりますので。

という形で一般に言われるような麻生と鳩山の扱いが違うという問題に対する回避行動を取れているし、コメント14件目で

僕は何かに対して否定的な情報を見た時、裏を取る癖があるだけなのですよ。
叩かれているのが麻生さんであろうと、鳩山さんであろうと、同じ事をやってます。

と述べている。
 同じこと、をやっているのではなく、同じようなこと、をやっているだけだ、と思う。比較対照において疑問を感じており、それについての論議をしたいなら相応の比較が必要だろう。13件目で擁護するコメントが入っているが、アバウトな「非難があったか」という比較に関して一定の説得を果たすにせよ、先のエントリがジョークでないのなら、おかしな話だ。
 なぜならこのエントリで述べられている内容は鳩山総理の行動スケジュールから最大限の良心でもってよい部分を可能な限り抜き出したものであるのに対し、それと同レベルの(国内におけるあいさつ回りや閣僚会議などの)行動に関しては一切付記されていないものだから。

disしたいわけではないです

 もちろん、fut573氏には非しかない!というわけではなくて、実際に当人にとっては当人の意見が全てであり他集団の意見など関係ないのではあるが、手法にどうにも問題があるのではなかろうか、という話だ。
 例えば後日エントリ(バランスをとるということ - 情報の海の漂流者)において

麻生disを加えればバランスが取れる?

とあるが、そうではないと思う。
 つまり、disを加えることによる公平性の付加ではなく、両者が共に同じことをしたところについてはお互いに書き、その上で麻生総理がやったこと、鳩山総理がやったこと、を別々に付記すればいいのではないだろうか。麻生総理のコピペが長くなるにせよ、それによる公平性の維持が可能であるように思う。これならば、麻生総理を不当に咎める事もないだろうし。


 バランスを取る、ということは本当に重要だけれども、その方法論においてはまだまだ修練が必要だなあという教訓として胸のうちにしまっておく。