IS-LMがより簡単な不況の図解、の間違いでは

IS-LMより簡単な不況の図解 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/c503d3aab1a05c28fc7279afd0dd99da

 現代で最も欲求を、人が求めるものを顕にしている産業は私には池袋を中心とした家電類への値下げ合戦というか、値下げ交渉合戦であると思えるのだが、これはまさに価格を変更しての再契約を結ぼうとしていることにあたらないだろうか。財の価格が下がりある点において合意を得られて均衡価格が決定する、まさにIS-LM分析によって説明がなされる典型とは言えないか。

 スーパーにおいて価格を交渉しようとする者がいないように見えるのは、実際に買い物をしていないから見えていないだけではないか。主婦に限らず均衡価格を求めて動き、自身の労力を底に加味しないあるいは労力を費用化した際にその対金銭価格比が低い者においては、近隣の別のスーパーとの価格比較、特売の日を選んでの購入を行うことは造作も無い。これは実際に価格交渉を目の前で行っていないだけで、均衡価格に至らなければ購入されないという典型ではないか。売れ残りは割引されて均衡価格に下落する。ラベルに貼られた金額はそのまま商品入手にかかる金額全てを意味しない。原価計算の基本ではないだろうか。

 動学的確率的一般均衡モデルにおいても現代日本において行われている需要供給関係はIS-LM分析と同等の動きをするように思う。IS-LM分析そのもの全てが学問的に否定されているというのは間違いだと思うが、どうか。直感的に理解し難いから、がその理由ではないように思う。

サプリ嫌いの健康志向

なぜあなたはサプリメントを嫌うのか。
なぜあなたは健康を志向するのか。
サプリメント嫌いで健康を志向する人に対しての反論覚え書き。
具体例で言うなら母へ、知人へ。


 推測するに、ビタミンやミネラル等のサプリメントを嫌いな人間でも、以下の項目に当てはまる人間は多い。
・食材から栄養を摂るのが良いと考えている
・成分表を見て、一日あたりにどの程度の成分を摂るのが良いかを考えている
・ビタミンやミネラルそのものは否定しない
 これらの人間は、つまりその前提となる「食材の栄養成分表一覧に記載される成分は科学的に確かめられている」こと、及び「一日に必要とされる成分は、表記されている故に科学的に確かめられている」ことについて深く考えていないといえる。

 サプリメントを嫌う人間のいうその理由の筆頭は、たいてい以下に集約される。
サプリメントは非自然物であるから、身体に良いとは言えない
・人間は元来サプリメントなしで生きてきた。故にサプリメントは本来不要
サプリメントでは補えない、自然由来の成分などが存在する
 上の理由から順に、主張の内容は微妙に異なる。

 非自然物が身体に良いと言えないのはありうる話だが、ならば自然物は身体に良いのか。自然物全てが身体に良いと言えないのと同じように、非自然物が全て身体に良いとは言えないだろう。その割合が高い低いは求めることができない(非自然物の総数は?自然物がこれで全てだという保証は?)ことにより反論できるが、更に言うならば、人間を指向して作られたであろう非自然物が、その人間に対し悪い影響を及ぼす可能性に言及できる論拠は何か。恐らく万物は取りすぎれば害悪になるように、閾値が存在するのではないか。非自然物であることをもって身体に悪い、とは言えない。
 人間が元来サプリメント無しで生きてきたことは事実であろうか。サプリメント、という形での摂取がなされていなかっただけで、近代化以降食生活の変化とともに薬と言う形で有効成分の摂取は進んでいたのではないか。自然物非自然物に関する話題は前項であげているから、漢方等といった自然物を処理したものによる接種がサプリメントと本質的に違う、という論拠は外れているといえる。こうした有効成分の摂取がより手軽に、より科学的に必要とされている成分に対し直接的に影響を及ぼす形で現れたのがサプリメントではないか?加えて、現代事情に合わせた生きていくためのより簡便な、より充実した形としてサプリメントが存在していると考えることもできるから、不要であるという形で切り捨てるのは現実を、未来を見据えていないことになる。無しで生きていくことも可能であるから、必要とは言い切れない。不要であるという論調はおかしい。
 自然由来の成分などが存在する、という論拠はどこか。究極的に食材の成分を科学的に分析した場合、『不明な成分』というものは存在しない。効能が不明かどうか、で論じるならば、既に様々に認識されている成分ですらその効能が確定的に明らかであるかどうかは不明である。こうなると、サプリメントで補えない自然由来の成分、未知の成分とはいったい何なのだろうか。オカルト上の話になるのならば、科学の埒外である。恐らくこうした部分は精神的に及ぼす影響のほうが強いであろうから、科学は万能でないことを理由に回避される。

 サプリメント嫌いの人間が、健康を歌うのはマクロ視点で見ておかしな話であるといえる。健康とはバランスであり、数値化して表すことのできる点が多々存在する。サプリメントは既存の食材食品とはこうした面で大きく違う。旧来の食品であることそのものが及ぼす精神的な、ひいては肉体的な、つまり健康に対する影響は計り知れないが、程度問題であろう。サプリメントであることそのものを否定する人間は、学知らずであると言える。

マスコミは営利企業 捏造の程度問題、リテラシー、重要性と正確性

とある局の放送作家の人に愚痴られた話と、テレビ番組制作者のジレンマ。 - 不倒城
http://mubou.seesaa.net/article/137350182.html

 上を読んで、コメント欄の超新星っぷりに食指が動いたので考えた。とりあえず他所様のコメント欄で暴れるのはどうかと思う。何かしらエントリーでもって意見をいうべきではないだろうか。

 まず定義の問題として、インタビューカットとは何を指すかという点で意見の相違があることでだいぶ話がこんがらがっていることから、ここでは「インタビューを編集する」=「単に尺を短くする」と定義し、「編集の仕方に(故意か偶然か)ミスがあった場合」に「捏造報道になる」とする。加えて「TB元の話は当然真実である」(疑うのは疑わしい証拠を見つけてからだと思う)とし、「コンセンサスを取る」とは「放送しようとしている内容に対し話者が納得する」事を指すとし、(2個目のコメントより)「話者に対して事前にコンセンサスを取ることは不可能であることが多い」とする。

 「営利企業たるマスコミ」は大量の情報を視聴者に対し伝えることで何らかの利益を得ることが目的であり、収益モデルはともかく、最終目的は当然「利益を出すこと」であるから、そのために「視聴者を得ること」が必要となる。「視聴者を得る」ためには「報道する」必要があり、「報道する」ためには様々な形で「情報を入手」しなければならない。だから近年言われるのがこの「情報の正確性・信憑性」であって、ここが崩れれば視聴者にとっては不利益になるとされる。ここで一次情報をもとに番組を構成するマスコミのその正確性が問われるために、編集の仕方に対し注目が行くのであろうが、単にマスコミを収益発生のモデルとして考えたときこうした正確性というのは不要であるように思える。何故ならこの正確性が収益に対し及ぼす影響は微々たるものであり(朝日新聞のサンゴの事件や政治偏向報道を行っても、それが様々なファクターを通して収益に対して与えた影響は軽微であり根本を揺るがすには至っていない)、優先されるべきは「報道をする」「情報を集める」ことその物であるから。
 つまり話者に対してコンセンサスを取ることは単なる収益モデルで考えたときには不要な行為であるように思えるが、倫理的には問題があるのは確かだろう。当然、倫理的に問題があるからこそ実体経済へ何らかの間接的な影響を及ぼすのだろうが、現実を見る限り無視できるレベルなのだろう。倫理レベルでの問題であるからには倫理的な批判は為されるべきであろうが、それをすべてと取るのはいかがなものかと思う。正しさを追求する態度は必要であるけれども、それを以って誹謗中傷へと転じるのは間違ってはいないか。

 最初の定義で述べた通り編集のミスが捏造を生むのであるから、捏造に程度が生じるのは当然と言える。捏造の程度が高い(卑俗・猥雑)であればあるほど倫理レベルでの質の低さも甚だしくなり、それに対する批判の度合いも強められるべきであるということは真だろう。さらに言うならば、重要な事象に対する捏造は倫理的批判を強くされるべきであろうから、その物事の重要性もまた批判の度合いと比例関係にあると言えるだろう。さて、重要な物事(何が重要であり、重要とは何かということはまた新たに考える必要があると思うが)であれば当然、正しい情報を伝えることによる必要性や期待が高まることからマスコミが営利企業であろうと公器であろうと事実を正しく伝える役割は恐らく企業努力が許す限り一定の割合で果たされるであろうと思われるから、重要な事象に関しては先のようなコンセンサスを取る行為であれなんであれ(速報はまた一つ別の事象であるように思う)行われるであろうからマスコミは一定の役割を果たせるだろう。
 問題はこうした事象に当てはまらない重要性の低い要件であるからして、当然扱われる尺も短く、再確認が行われることもコスト上ありえなく、インタビュー前に要求を伝えるというリスク・コストに見合わないというその性質である。こうしたことから考えると、4つ目のコメントで言われているような程度問題とは違った、重要性と正確性の比例関係の中での程度、それに対するマスコミ側と視聴者側相互のリテラシーが一段と要求されることになるのではないだろうか。

 マスコミ側のリテラシーを向上させるためには、実体経済に比較的結びつきにくい倫理的な問題をより収益に反映させることのできるシステム(毎日新聞の広告云々はひとつの形だろうが、より法整備の進んだシステム)を用意することが必要と思う。視聴者側のリテラシーを向上させるためには、マスコミが重要性と正確性を関連付けているであろうこと、つまり日常目にするレベルの情報には常に不正確性がつきまとうということを意識することと、意識しなければ不利益を被るシステムを用意することが必要と思う。相互間において力関係がより強固な形で働き、それを意識して行うことがひいてはマスコミ側の一次情報取得における正確性の確保を用意にするであろうことを想定しなければならないと思う。

最近の若者は「ダメ」か?

 「最近の若者はダメ」とは、発言者及び発言者周辺の作る狭い社会の中に「最近の若者」が持つ精神性や文化を持ち込んだ場合に適応できない、あるいは認められないという意味での「ダメ」という意味で好意的に解釈出来る部分があるように思える。当然、発言の前後で「最近の若者はダメ」には額面通りの「最近の若者は劣っている」がニュアンスとして含まれ解釈されるあるいは自身がそう意識しているということに気づくことになるから、発言者は「最近の若者はダメ」を否定されると自論の正当性を主張出来る根拠がないことにぶち当たり、鏡返し的に「最近の若者はダメでない」根拠を相手に求めるのではないか。
 好意的な解釈とはつまり、彼らは本質的に若者はダメだと思い込んでいるのではなくただ若者が優秀かどうかについて深く考察したことがない為に、自然に自身の価値観の内枠の中での若者性の価値判断を行っているのではないか、という意味である。50-60まで生きた人間の大半がが、現代の若者の能力は低く、それらの人間が50-60になっても自分たちを超えることはないなどとそこまで幼稚な考えを持っているとはとても考えられない。


 こうした「最近の若者はダメ」という言葉に後付的に「若者を低く見る文化が世代レベルでの成長を促し未来を切り開いてきた」などといった論説をするのは事の本質を見据えていないと見える。問題にされるべきは彼らの「最近の若者はダメ」という発言がどのような要因から吐き出されてきたかというミクロ視点での話であり、そうした発言の集合体が我々全体とどのように関わってきたかというマクロ視点での話ではないからである。
 しかし、マクロ視点での話もまた一考されるべきではあろうと思う。当然、そうした効能があるから「最近の若者はダメ」という言説は認められるべきとはできない。こうした形でのマクロ視点からミクロ視点への転換は不適切であると考えられる。
 「最近の若者はダメ」が「若者を元気に」してきただろうか。オッカムの剃刀よろしく、「最近の若者はダメ」は切り捨てられるべき言葉ではなかろうか。結論から言えば、まさに余計な一言であるように思う。なぜなら「最近の若者はダメ」は言ったところで冒頭のように「最近の若者は劣っている」と解釈される可能性が高く、そうした発言を平気でする人間に対して若者の士気が高いとはとても思えず、発言者の郷愁であると理解したところで若者側の反応は似たりだろう。「最近の若者はダメ」を言わなければ無駄に士気をそがれることはなく、実際に劣っているならば数値がそれを示し、結果は自身に跳ね返ってくるだろう。認知できぬ能力の低下は自身に起因するとは限らない。外部環境と測定基準の正当性を疑ってみるべきと思う。


 ここでもう一度、ダメとは何かについて考えたい。計数能力が低いことか、精神年齢が低いことか、適応能力が低いことか、体力数値が低いことか、文化が劣等であることか、意思が薄弱であることか、趣味が希薄であることか。私にはこれらすべてが広義な相対的パラメータであるように感じられる。つまり、ダメとは相対的であるということである。
 実務能力の低さとは、その実務を求める側も年代によって変われば仕事になる最低レベルの実務レベルのラインも変わる。逆に高齢者の犯罪率の高さは法基準というものが(少なくとも軽犯罪のレベルでは)流動的であることや、気質やそれを許容する文化がまた相対的であることから絶対的な指標には成り得ないようにも思える。
 しかし、絶対基準が存在しないとも云いきれないのではないかと思う。例えば隣人を殺害することは過去現在未来を見渡しても、看過されることなき犯罪であり、ひとつの指標となるのではないか。そうした犯罪をどのように解釈するかはまた別問題であろうが、様々な要素の複雑に絡み合う結果として存在する傷害致死という結論がどれだけ存在するかということは決定的な要素であると思える。どういったパラメータが相対的として認識されるべきかということに関しては、より深く考察するべきであると思える。

集団と個人の論争における非対称性

前提

・集団が集団を相手取る→対称
・個人が個人を相手取る→対称
・集団が個人を相手取る→非対称
・個人が集団を相手取る→非対称

 対称であるケースでは相互に平等であると言えるから、以下で提示する問題は生じない。ここでは主に4例目の個人が集団を相手取る場合の非対称性について述べる。


集団が個人を相手取るケースの例
 →2chやふたば、その他bbs等で個人が引き合いに出されるパターン
  →有名人が槍玉に挙げられるパターンか、一般人が私刑に会うパターン

ただし通常bbsなどで論争する場合、個人間での統率が取れていないので、
・メリット
 ・いわゆる勝ち戦である場合攻撃力が飛躍的に上がる点
 ・実際には個人の集合であるため、集団として矛盾した意見を内包出来る点
 ・数の暴力という武器が存在する点
・デメリット
 ・相違する個人がいる以上、常に純粋な意見を排出できない点
 ・論争における勝ち負けが明確でない点


個人が集団を相手取るケースの例
 →blogなどで一個人が集団の総論にメスを入れようとするパターン

・メリット
 ・集団側の反論に対して、私は集団とは違うのだから、集団の言ってきた事に対する責任は存在しないと言い切れる点
 ・意見を挿げ替えても自身の裁量で全てをコントロール出来る点
 ・個人の限界を提示することが出来る点
・デメリット
 ・1人で実際に多数の人間に対し返信しなければならない手間という点
 ・多角的な視点を求められた場合に対応が困難である点

個人が集団を相手取る場合のメリットについて

 一般に個人対集団ではいかにも個人が弱者のようかに思えるが、実際はそうではない。そこに集団側の権力や圧力、実動力なるものが存在しない限り、手間と折れないだけの精神力を惜しみさえしなければ個人のほうが圧倒的に強い。


 上で述べたように、個人が集団を相手取るメリットとして、自身の責任の及ぶ範囲を自身だけに限定することで、集団内で繰り広げられていた数々の前提的な責任を無効化できる。これは本来議論としてはあってはならない光景だが、そもそもにネット上における集団とは集団としての体しか成していないので改めて個人が疑問を提示した場合、それが今までの肯定派あるいは否定派が持っていた相手に対する説明責任や言われていた批判材料をなかったことに出来る。つまり、これはあくまで私の意見であり、私の総意であるから、集団とは関係ない、と言い切れる。
 また個人としての限界を示すことにより、ここまでは私が頑張ったから後は何かあればそちらで提示してくださいと言い切れる。これをもって立証責任を逃れることが出来るため、平等さにかける発言であっても容認されやすいといえる。私はある革新的な意見を提示した、だから事実確認は君たちでお願いしたいという主張であっても、ある程度の説得力を持ってしまう。


 自身側の意見を自分だけでコントロール出来るのも大きい。通常集団は、特にネット上の集団は意見を集約する力に大きく欠ける。統率者がいない以上、当然だ。こういった集団を相手にしているにもかかわらず、自身と集団を対等な立場として議論が進む以上、意見の相違が多発する集団側に対し、常に一貫した姿勢あるいは二転三転しても統率の取れる個人側の持つメリットはとても大きい。
 こうして個人が集団を相手取った結果現れる新たな個人と個人が対立しだした場合は対称であるから上記のような問題は発生し得ないようにも思えるが、実際は違う。集団を相手取った個人である以上、その影響力はあたかも集団と同等以上かのように思えるその個人に対し、初めての対峙が個人相手である個人とは背景になるものが違うため、はたから見ても大抵の場合前者の個人のほうが有力に見えるものだ。これはこれでそのまま集団じみたものを構成していく一つのプロセスであるようにも思えるが…

非対称性の利用(意図するかせざるかに関わらず)

これまでに鳩山由紀夫がやったことの首相行動表を修正してみる(情報の海の漂流者)
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20091008/1255021841


 上エントリにおいて、上記のようなメリットを応用する例がいくつか見られる。例えばコメント2件目で

> y7さん
僕は麻生さんバー通いのときも今回の鳩山さんの時も同じスタンスをとっておりますので。

という形で一般に言われるような麻生と鳩山の扱いが違うという問題に対する回避行動を取れているし、コメント14件目で

僕は何かに対して否定的な情報を見た時、裏を取る癖があるだけなのですよ。
叩かれているのが麻生さんであろうと、鳩山さんであろうと、同じ事をやってます。

と述べている。
 同じこと、をやっているのではなく、同じようなこと、をやっているだけだ、と思う。比較対照において疑問を感じており、それについての論議をしたいなら相応の比較が必要だろう。13件目で擁護するコメントが入っているが、アバウトな「非難があったか」という比較に関して一定の説得を果たすにせよ、先のエントリがジョークでないのなら、おかしな話だ。
 なぜならこのエントリで述べられている内容は鳩山総理の行動スケジュールから最大限の良心でもってよい部分を可能な限り抜き出したものであるのに対し、それと同レベルの(国内におけるあいさつ回りや閣僚会議などの)行動に関しては一切付記されていないものだから。

disしたいわけではないです

 もちろん、fut573氏には非しかない!というわけではなくて、実際に当人にとっては当人の意見が全てであり他集団の意見など関係ないのではあるが、手法にどうにも問題があるのではなかろうか、という話だ。
 例えば後日エントリ(バランスをとるということ - 情報の海の漂流者)において

麻生disを加えればバランスが取れる?

とあるが、そうではないと思う。
 つまり、disを加えることによる公平性の付加ではなく、両者が共に同じことをしたところについてはお互いに書き、その上で麻生総理がやったこと、鳩山総理がやったこと、を別々に付記すればいいのではないだろうか。麻生総理のコピペが長くなるにせよ、それによる公平性の維持が可能であるように思う。これならば、麻生総理を不当に咎める事もないだろうし。


 バランスを取る、ということは本当に重要だけれども、その方法論においてはまだまだ修練が必要だなあという教訓として胸のうちにしまっておく。

なくなりゆく言葉


"って言葉もなくなる" の検索結果 約 54,000 件 (2009/10/04 22:54)

 最新の、なくなりそうな言葉をチェックして、いくつかピックアップして考えてみた。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1C1CHMG_jaJP299JP303&q=%22%E3%81%A3%E3%81%A6%E8%A8%80%E8%91%89%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B%22&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

・(国鉄が)民営化したら、(借金返済に充てられているタバコ税に対するタバコ会社への)恩義って言葉もなくなるようです
・誰もが違っていい、違うのが当たり前になれば障がいって言葉もなくなるのにな〜って思ってます
・派遣やバイトは、本当に大変です。でも、正社員って言葉もなくなるかもしれないし、明日は我が身
・残暑って言葉もなくなるのかねえ、温暖化で
・ロボットが蔓延することで職人技って言葉もなくなるのでしょうね〜
・(週休二日制になることで)ハンドンって言葉もなくなるのですね・・・
・(時代の流れによって)そのうち、「冒険家・冒険」って言葉もなくなるかも
・人間がいなくなる事が究極のエコなんよね。「エコ」って言葉もなくなるけど
・(ソニーのワイヤレス電源ワイヤレス化の技術を受けて)そのうち充電って言葉もなくなるんだろうな・・・


 この他20件ほど目を通した結果、「って言葉もなくなる」という表現は大きく分けて二つの文脈で使用されることが多いと判った。

  • 皮肉をあらわそうとする文脈
  • 未来の予測に関する文脈

皮肉をあらわそうとする「って言葉もなくなる」

 「って言葉もなくなる」がこの文脈で用いられる場合、筆者は反語表現として用いていると考えられる。上記の例で言うと

・人間がいなくなる事が究極のエコなんよね。「エコ」って言葉もなくなるけど

がそれにあたり、本気で憂慮しているというよりは楽しんでいるか、あるいはその表現の元となる文章を馬鹿にしている場合に用いられている。

未来の予測に関する「って言葉もなくなる」

 こちらのほうが「って言葉もなくなる」という意味をそのまま表している。筆者はその状況を憂慮しているか、感傷に浸ったような様相を呈しているか、したり顔になっているかのいずれかと言ったところ。例えば

・(ソニーのワイヤレス電源ワイヤレス化の技術を受けて)そのうち充電って言葉もなくなるんだろうな・・・

は、充電と言う言葉が本当になくなる自体を憂慮したりしているわけではなく、想像可能な未来がすぐ近くに存在していそうなことに対する期待感や、長年存在した充電という概念に対する感傷を表す文章を生んでいる。あるいは

・残暑って言葉もなくなるのかねえ、温暖化で

のように上の例よりも若干その事実を憂慮したり、悟ったような態度を表す場合にも用いられている。


 総括すると、言葉がなくなるという表現はそれだけを捕らえれば多くの場合本気で憂慮しているというよりも、そこに警鐘を鳴らしたり皮肉ぶったり、感傷表現の一部として用いられるパターンが多いことが判る。
 ここから考えるに、「って言葉もなくなる」という言い回しをもって人を説得しようとするような文章を作ることは容易ではない。なぜならその表現を使った時点でそれがありもしないものだということを意図せずに相手に受け取られる危険性があり、説得力を失いかねないからだ。

お釣りに関して

 以前まで、小学生の頃からずっとおつりの計算に以下の(1)式を用いていたのだが、そんな計算を皆はしていないという友人の指摘を最近受けて(2)式に変えた。しかし変えたことを報告すると友人にさらにダメ出しを受けたので、何がいけなかったのか考察するために書き出すことにした。なお、多くの場合硬貨で支払う程度の金額のため、エントリー内では紙幣という表現は冗長になるため避けた。同様の方法で解決している。

(1)式

・コンセプト
 財布の中に5円・50円・500円が複数存在しない状態を保つ


・プロセス

0:財布の中の各硬貨の枚数を確認
1:代金の1桁目の数字が… 5-9→2へ 0-4→4へ
2:財布の中に5円玉は… ある→3へ ない→4へ
3:代金から5円を引き、5へ (支払い時に、出た数字に加えて5円を別に払う)
4:代金に5円を足して、5へ
5:1円玉の枚数がこの時点で足りなく、かつ1桁目が0でない場合、10の位に切り上げる
6:同様のプロセスで最後まで計算を終える
7:最終的に出た数値の金額を払うと、硬貨が十全な場合お釣りの全ての桁は0か5で表され、5のプロセスを踏んでいる場合は1-4で表される。この場合、高確率で次の買い物では5のプロセスを踏まないことになる


・問題点
 計算が若干煩雑(慣れれば1秒強で3桁は行けるが)
 分岐点が存在するため、額によっては計算が長くなりやすい

(2)式

・コンセプト
 財布の中に5円・50円・500円が複数存在しない状態を保つ
 煩雑な計算ステップを踏まない


・プロセス

0:財布の中の各硬貨の枚数を確認
1:代金の一番上の位が… 0-4→2へ 5-9→3へ
2:その位の硬貨が財布に存在すれば5で始まる硬貨を、なければ3へ
3:そのひとつ上の位の1で始まる硬貨を、なければ5で始まる硬貨を出す
4:2・3で出した硬貨から代金を引き、仮のお釣りを出す
5:お釣りに対して、手持ちの金額の中で足せば5になる、あるいは繰り上がる桁を計算し、追加で支払う
6:繰り上がりに注意して全桁の計算を終えたら支払う


・問題点
 プロセス数や分岐点は少ないものの、5のプロセスが煩雑
 額によっては繰り上がりの計算でのミス発生率が高い

解決法・および友人の言う正解

・解決法その一
 (2)式に近いが、(2)式でいうと3のみを以って終了とする方法

・解決法その二
 クレジットカードや電子マネーを使う


 まず驚いたのは、それなりの数の人間が本当に計算せずに支払いを済ませているという事実だった。計算は面倒ですか。確かにそれでも大丈夫だけれど…几帳面すぎなのだろうか。
 文章化すると複雑なプロセスかのように思えるが、実際はごく自然に行っている計算方法。なにそれこわい、という反応をもたれるということは、僕が間違っていたのだろうか。

 とりあえずのところ、あまり硬貨の枚数を気にするべきでないという意見は確かに正論。長財布とコインケースは分けて持つべきだろうか。でも長財布欲しいなあ、確かにかっこいいです。